チョッカリ
スキーを始めたのは, 小学2年生のときでした.
父親が, 日本で初めてスキーが伝来した, 昔は積雪が4-5 mにもなる世界一の豪雪地帯(1日のうちに雪が2 m10 cm積もった世界記録があるそう)の出身でした. 昭和20年代の竹ストックの頃からスキーをやっていたので, 日曜日になると, 近場のスキー場に連れて行ってもらっていました. ウチにはクルマがなかったので, スキー場までは, 鉄道またはバスで行っていました.
因みに, 父親の弟の叔父さんは, 今はなくなってしまった『カザマスキー』という地元のスキー製造会社(1912年創業, 1996年倒産)でスキーを作っていました.
初めて履いたスキー靴は, ゴム製の長靴でした. この長靴を木製のスキー板に革製のストラップで固定するというものでした. スキー板は, 『合板(ごうばん)』と呼ばれる木製のもので, ソールももちろん木製でした. 金属製のエッジはついておらず, 裏面はほぼ木目でしたので, そのままだとほとんど滑りませんでした. ストーブで温めて軟らかくなったスキーワックスをソールに生塗りしていました. このワックスが銀色の蝋の固まりで, 『銀パラ』と呼ばれるものでした. ワックスを塗ると, ソールが銀のまだらになって, 見映えが悪いのですが, 塗る前よりも滑るようになりました. しかし, 今のスキーと比べると滑走性はとても悪いものでした.
最初は, スキーを担いでスキー場の斜面を登って, そこから滑り降りるというのを繰り返していました. 父親は, かなり上手だったのですが, 滑り方をいろいろと教わったという記憶はあまりなくて, ずっと直滑降ばかりでした. 当時は(今も?)真っ直ぐ滑り降りることをチョッカリといいましたが, チョッカリ専門でした. 曲がら(曲がれ)なかったのには, スキー板の滑走性が悪かったこともありますが, スキー板へのスキー靴の固定性が悪かったという理由もあったと思います. バランスを崩すと, 足から長靴が脱げてしまうということもありました.
ミニスキー
平日は, 小学校から帰ると, 毎日のようにプラスチック製のミニスキーという短い板で滑っていました. やはり長靴にミニスキーをバンドで巻いて着けます. プラスチックで撥水性があったので, 木製の板よりは滑りました. 家の近くの雪が積もった坂や庭に造った雪山を滑って遊んでいました. ミニスキーは, つんのめるととすぐにつま先あたりで折れてしまいます. 折れるたびに, お小遣いを持って, 近くの雑貨店に買いに行きました. 当時は, 300円くらいだったと記憶しています.
やっと曲がる
小学6年生の時に, 積雪が1−2 mを超えて, 屋根から雪下ろしが必要な土地に転居しました.
小学校でスキーの授業があるため, スキー用具が一新されて, プラスチック製シェルのスキー靴(ただし, くるぶしの上までで短かったのでブーツではなくて靴)と固定性の良いビンディング(ステップインではなくて, 踵を固定して, つま先のレバーを倒してバネで固定するタイプ)が付いたエッジのあるプラスチック製ソールのスキー板を買ってもらいました.
通学していた小学校のグラウンドは, 冬には雪捨て場になっていて, 市内で除雪された雪がダンプカーで運ばれてきていました. その雪が集められてできた小山があって, 昼休みにはこの小山を登って滑っていました. また, 市内のスキー場に歩いて行って, 体育の授業としてのスキーが2時限連続でありました. この頃になって, やっとプルークボーゲンで曲がれるようになりました. また, 金曜日の授業が終わると, スキー道具を持って(スキーペグというストックとスキー板を一緒に固定する器具を付けて, 手で提げて)帰り, 日曜日には家族でスキーに行っていました.
当時のスキー場は, ロープトウかシングルリフトしかありませんでした. ロープトウは, グルグル回るロープをつかんで, 自分の板で滑りながら坂を登るものです. ロープをつかむとグローブが擦れて, すぐに表面がボロボロになり, 手が濡れてしまって, とても冷たかった記憶があります. 真冬は, ロープが凍っていて, つかもうとしても滑ってしまって, なかなかつかめないということもありました. また, スキーウエアも防水ではなかったので, 裾やお尻の部分がすぐに濡れていしまい, さらに凍りました. このため, 休憩時間になると, 休憩所の中のストーブの囲いに帽子や手袋を掛けて干したり, ストーブの周りに立って, 濡れたウエアを乾かしたりする必要がありました.
中学生の頃
中学1年生の時に, ドロミテというイタリアのメーカーのスキーブーツとステップイン式のビンディングが付いたグラスファイバー製のスキー板(スワロースキーという国産のスキーメーカー製)を買ってもらいました. 中学校の裏山にあった斜面を皆で横歩きで踏み固めて, そこを登って滑り降りたり, バスで市内のスキー場に行ったりと, 体育の授業でスキーがありました.
冬の間, 休み時間の話題は, 専らスキーの話でした. スキーシーズン前には, スキー雑誌『skier』のカタログブックを学校に持ってきた級友の周りに集まって, あれがいい, これがいいと話したり, スキーワールドカップで活躍している選手(当時の絶対王者は, スウェーデンのステンマルク!)の話をしました. 買ってはもらえませんでしたが, 外国製のスキー板が憧れの存在でした.
中学2年生の時に転居しましたが, やはり雪国でしたので, 市内のスキー場に歩いて行って, スキーの授業がありました. 日曜日には, 家族でスキーに行っていました. 平日も家に帰った後, 家のすぐ裏にあった山(リンゴ畑)にスキーを担いで登って, 木々の間を滑り降りていました. この頃になると脚をそろえて滑られるようになっていました.
5年間のブランク
中学3年生の時にまた転居したのですが, 雪が少ない土地であったことと, 勉強が忙しくなったことと, 父親も仕事が忙しくなったことなどが重なり, それ以降の高校3年間と大学浪人の1年間の5年間は, スキーを全くしませんでした.
中学校ではテニス部で, 高校では合唱部に入っていました. 当時は男子校だったので, 男声合唱団でした. 合唱では, 全国大会に出ました.
大学で競技スキー
1年間の浪人後に医学部に入ってから, 競技スキー部に入部して, スキーを再開しました.
滑り方をすっかり忘れていて, プルークボーゲンからのやり直しでした. 1年生から4年生までの4年間は, 毎年100日前後はスキー場に行って滑っていました. 大学からクルマで40-50分くらいで近隣のスキー場に行けたのと, 当時のスキー場は夜にナイター営業をしていたので, シーズン中は, 週3でポールを立てて練習しました. また, 講義が空いている(サボれる)時期や連休には, スキー場近くのペンションに住み込みでスキー学校のインストラクターのバイトをしていました.
地元の草レースにエントリーして出たり, 医学部学生のレースに出たりしました. 医学部学生界の最大のスポーツイベントは, 年に1回, スキー競技として, アルペン競技の3種目(回転(スラロームSL), 大回転(リーゼンスラロームRSまたはジャイアントスラロームGS), 滑降(ダウンヒルDH)とノルディック競技の距離(ディスタンス)を競う大会で, 東日本(東日本医科学生総合体育大会, 通称『東医体とういたい』)と西日本(西日本医科学生総合体育大会, 通称『西医体にしいたい』)にそれぞれ分かれてあります.
1年生当時, 距離競技を専門に行う部員がまだいなかったので, 1年生が強制的に出場させられました. 試合前には全く練習していなかったのですが, ちゃんとしたレース用のワンピース(薄くて, メチャクチャ寒い)に着替えさせられて, 部に伝わってきた距離用の板とポールを持たされて, 「それ行ってこい」という先輩のかけ声で, スタートしました. レース用のワックスをちゃんと塗っていない(距離競技は, ほぼワックスで勝負が決まります)ので, 板は滑らず, 下り坂では転倒して雪まみれになり, 鼻水やよだれは凍って息は上がって苦しい, とても辛かった思い出があります. そんな自分たちを, 先輩達はメチャクチャ笑いながら, 応援していました. 2年生以降は, 自分たちも応援する側に回り, 1年生が悪戦苦闘する様子を楽しみましたが・・・. 数年後には, 距離を専門に行う部員が入部してきたので, この悪しき伝統も消滅しました.
私は, アルペン競技の方をやっていました. 医学部学生のスキー競技大会ではありましたが, 特に滑降は, 富良野, 雫石, 蔵王温泉, 野沢温泉などの公認コースを借り切って, インスペクション, ノンストップトレーニング, レースとワールドカップやオリンピックと同じように3日間かけて行われました. ちゃんとジャンプも2カ所入っていて, 最高速度は100km/h以上出ていたと思います. 私が 医師になってしばらく経ってから, 大山で行われた西医体の滑降競技中に死亡事故があり, その後に滑降はなくなって, 代わりにスーパーGになったと記憶しています.
この滑降のレースに出るための練習もしました. 某スキー場の頂上から麓まで尾根沿いのコース約1,500 mを, ヘルメットをかぶって, 230 cmの板を履いて, クローチングを組んだままでノンストップで滑り降りるというものでした. 今考えると, かなり危なかったと思います. 当時のスキー場は, スキーブームの真っ最中でしたので, ゲレンデにいる人数が今よりもずっと多い状況でした. リフト乗り場には行列があって, リフト待ち20分ということも珍しくありませんでした.
スキーギアの遍歴
さて, スキーヤーあるあるでこれまでのスキーギアの遍歴を披露します.
大学1年目(1984/85)は, ブーツはカベール(caber, イタリアのブーツメーカー, 今はなくなってしまいました), 板はロシニョール(Rossignol, フランスのスキーメーカー), ポールはケルマ(Kerma, イタリアのストックメーカー)でした.
2年目(1985/86)は, ブーツは継続, 板はロシニョール4S(黒シルバー)に変更しました.
3年目(1986/87)は, ブーツはラング(Lange, イタリアのブーツメーカー)に変更, 板は継続でした.
4年目(1987/88)は, ブーツは継続, 板は名機ロシニョールの4Sケブラー(緑)と3Gケブラー(白)に, ポールはスワンズ(山本光学という日本の眼鏡メーカー)に変更しました.
5年目(1988/89)は, ブーツ, 板ともに継続でした.
6年目(1989/90)は, 医師国家試験の勉強と, スキー部内では伝統的に「卒業年にスキーに行くと医師国家試験に滑る(落ちる)」と真しやかに伝わっていましたので, 卒業までの間, スキーは封印しました. 卒業旅行で, 初めて北海道に行って, 札幌国際とニセコを滑って来ました. 言い伝えを守ったおかげ(?)で, 無事に医師国家試験に合格しました.
大学卒業後もスキーは続けてきましたが, 年間滑走日数は概ね30日くらいです.
医者になってからは, ブーツはサロモン(Salomon, フランスの元々はビンディングメーカー, 後にブーツ, スキー板も作り, 世界初の総合スキーメーカーに)のリアエントリーブーツ SX91を購入し, 以後サロモンを継続中, 板はサロモン S9000 Equipe 2S(1990/91)→ロシニョール 7Sケブラー(黄)(1994/95)→フィッシャー(Fischer, オーストリアのスキーメーカー) RCR Revolution VRS(1998/99)(初めてのカービング板!)→フィッシャー SCENEOシニオS500 Air Carbon(2002/03)→アトミック(Atomic, オーストリアのスキーメーカー) D2 DEMO Type S(2009/10)→サロモン X/MAX R14(2015/16)→現在のサロモン(2020/21)で, 概ね4-6シーズン毎に買い換えてきました.
現在使用中のギアは,
ブーツは, Salomonサロモン S/PRO ALPHA130(2023/24)
板は, ショートがSalomon サロモン S/RACE SL PRO 165cm, ロングがSalomon S/RACE GS FIS 188cm(2020/21)
ビンディングは, Salomon サロモン X16 Lab
ポールは, LEKI レキ(ドイツのストックメーカー)
ヘルメット・ゴーグルは, Uvex ウベックス(ドイツのゴーグルメーカー)
ウエアは, Arc’teryx アークテリクス(カナダのアウトドアウエアメーカー), フェニックス(日本のスポーツウエアメーカー, 現在は中国資本)
グローブとソックスは, Therm-ic サーミック(フランスのアウトドアウエアメーカー)のパワーグローブとパワーソックスヒートユニ
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