金沢での学会1日目
昨日は飲み過ぎて, ベッドの上で布団を被らずに眠ってしまいました. ブログの記事も書けなかったので, 昨日の記事の投稿が今日になってしまいました.
8時過ぎに起きて, シャワーを浴びた後, 金沢駅前の石川県立音楽堂に歩いて行きました. 今日も青空が広がっていて, 爽やかな天候でした.
石川県立音楽堂に着くと, 受付が見当たらないので, 機械展示の業者の方に受付の場所を聞くと, 地下道を歩いて, 駅地下のもてなしドーム地下広場の方ですと教えていただき, さらに歩きました.
駅地下に行くと, 受付がありました. 学会参加者でごった返していました. ここで無事受付を済ませて, ネームカードを出力してもらいました. もはや, 事前受付して, 受付ではQRコードを読み取り機で読み込まれて, 受付が済むようになっていました. また, 日本整形外科学会の教育研修講演やランチョンセミナーは, 事前申し込みでオンライン決済となっていました.
午前中は, 石川県立音楽堂で行われたシンポジウムと教育講演を聞きました. ランチョンセミナーは, 当日受付がなく, すでに売り切れ状態だったので, 学会場から出て昼ご飯を食べることにしました. 午後は, 香林坊の金沢市文化ホールと北國新聞赤羽ホールのシンポジウムと教育講演を聞くことにしていたので, 金沢駅前から香林坊に歩いて移動しました.
高コスパランチと30年ぶりの再会
ランチをどこにするか, 『香林坊』 x 『ランチ』で検索して『割烹 むら井』さんに来ました. 創業50年以上の老舗さんでした. 1階は一杯だったので, 4階の席に通されました.
いただいたのは, 日替わり膳で, このボリュームで1,500円でした. ものすごいコスパです. ビールを2杯いただいてしまいました. とても美味しくて, 今度は夜に伺いたいと思いました.
次のシンポジウムが14時半からで時間があったので, デパート大和の地階でお土産を買うことにしました.
大和の地下階に階段で降りたところで, 「もしかして・・・」と女性に声を掛けられました. 「誰でしたっけ?」と記憶をたどりましたが, 思い出せず. お名乗りいただいたところ, 私が32年前に金沢に住むことになったときに, 一緒に住むアパートを探していただき, その後も所属した研究室で何かとお世話になった先生の奥様でした. 初めて行ったソウルとシンガポールの国際学会にもご一緒していました. 金沢から転居してからは, 年賀状でのお付き合いしかありませんでしたが, 30年ぶりの再会に驚きと, 感動をいただきました. 今日は, 金沢で激増している外国人観光客の通訳として, デパートに来られていたとのことでした. 金沢が大分変わったことについて, しばらく立ち話をしました. 「もう, 昔のようには戻らないので, 受け入れるしかないです」とのお言葉が印象に残りました. 今回金沢を歩いて, 去年よりもさらに外国人観光客がとても増えていたのを感じました.
午後の学会
デパートからほど近い金沢文化ホールに14痔過ぎに到着して, シンポジウムに参加しました. 午前中に参加した金沢県立音楽堂と同じくらいの参加者でした. 医師だけではなく, 看護師さん, 理学療法士さんなどいろいろな職種の方が参加されているので, とても活気がありました.
シンポジウム後は, 徒歩数分の距離の北國新聞赤羽ホールに移動しました. こちらの会場は, 半分くらいの入りでした. ミートザエキスパートという講演を聞きました.
金沢の夜2日目金澤おでん『赤玉本店』
18痔にホテルに戻ってから, 寝落ちした一昨日と酔っ払って書けなかった昨日の2日分のブログ記事を書いて, 公開しました. その後, 19時半から予約していた金澤おでんの名店『赤玉本店』さんに出かけました.
いつもは1階のお店でいただいていますが, 今日はきっと混むだろうと考えて, 事前に予約していたので, 2階席でした.
おでんはすべてのタネを食べようと, 注文していきましたが, すでに売り切れになっているタネ(がんも, じゃがいも, えびしんじょうなど)もあって, 全品制覇は出来ませんでした. その他に, 能登もずく, 白エビの唐揚げ, 鯖のへしこをいただき, 石川の日本酒『手取川』の本醸造生酒と『加賀鳶』のひやおろしと『月桂冠』の熱燗で流しました.
ノーベル平和賞
お腹がいっぱいになったので, 21痔にホテルに帰りました.
今日のニュースは, 「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」さんのノーベル平和賞受賞と大山のぶ代さん逝去のお知らせでした. 金沢の街中を歩いていると, ディスプレイに2つのニュースが出ていたのを見て, 知りました.
今年の5月に, 学会で福岡に出張した際に, 長崎の『平和公園』, 『原爆資料館』, 『爆心地公園』を巡ってきたのをしみじみと思い出しました.
戦後80年が経過して, 被ばく者の方々におかれましては, 年齢を重ねてこられたため, もうすぐ生の声を聞けなくなるでしょう, 今日は, 私たち日本人が, 世界で唯一, 核兵器に被ばくした記憶と記録を次の世代に引き継いで, 二度と核兵器による被ばく者を出さないという使命を負った日になったと思います.
コメント